平尾誠二氏のこと。その1 10月20日はミスターラグビー平尾誠二氏の三周忌
最近乗った都営バスの車内のモニターで、
日本で行われる2019年のラグビーW杯のプロモーション映像が流れていました。
それはあのips細胞でノーベル賞を受賞した山中教授が、平尾さんについて語っている映像。
ミスターラグビーと呼ばれた平尾誠二、
彼がこの世を去ったのは2016年10月20日。
あれからもう2年、三周忌を迎えます。
この写真をみてください。
亡くなった後、感謝の集いで使われた遺影です。
実際はラグビーボールを空に投げている写真の切り取りで、
屈託のない、無邪気な表情、視線の先にはラグビーボールがあり、
彼のラグビーに対する愛情みたいなものを感じます。
そして何よりイケメンです。
このルックスに惹かれてファンになってしまったこともありますが、
ファンになって、ラグビーマガジンなども読み漁り、知るほどにますます好きになっていった選手でした。
そして、訃報で思わず涙を流してしまった唯一のスポーツ選手でもありました。
三回忌のこの時期に、少し記録に書き起こしてみたいと思います。
長いので、記事を二回に分けます。
それでも長いですが。。
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平尾選手の経歴 伏見工業高校時代まで
中学時代、小学生から続けていた野球部に入ろうとしたところ、部員が多くて下積みばかりにしている横でラグビー部が楽しそうに、少人数で練習しているのをみて、ラグビー部へ入部。
そこからラグビー人生が始まります。
そしてあの伝説的なドラマ、スクールウォーズの舞台となった伏見工業高校ラグビー部へ、
当時の山口監督に請われ、まだまだ不良の巣窟のように囁かれてた伏見工業高校への進学に難色を示した親の反対を押し切り、特待生でほぼ進学が決まっていた花園高校を断り伏見工に入学、入部。
しかし当年の京都府大会決勝で、その進学を蹴った花園高校に敗れ、準優勝。
悔しさのあまり、表彰式に選手一人づつに渡されたトロフィーを、
投げ捨てて帰ってきたほどの熱さを持っていました。
そして三年生の時、とうとう全国大会で優勝を果たします。
が、その大会の準々決勝、平尾選手は試合中大怪我をしています。
左太ももの筋断裂。普通なら立ってもいられない状態でも
山口監督は平尾を外しませんでした。
そして迎えた決勝戦、
『お前と心中するつもりや、もう何もせんでもいい、
立っているだけでいいから、このチームを勝たせてくれ。』と、送り出しました。
もう走れない状態でも、ノーサイドの笛が鳴るまで出場し続け、
最後は平尾選手が真横にボールを蹴りだして試合が終わります。
同志社大学からイギリス留学へ
伏見工業から同志社大学へと進み、当たり前のように三連覇を成し遂げます。
そして彼自身も最年少で日本代表に選出されます。
日本選手権では新日鐵釜石には勝つことができませんでしたが、
ずっとスター選手であり続けました。
卒業後は引く手あまたで社会人チームからの誘いを断り、
「もうラグビーは(社会人では)しません」と公言し、イギリスへラグビー留学します。
自分のラグビーのレベルが世界ではどのレベルか知りたいとの思いで、
リッチモンドクラブに所属しながら、
イギリスのデザイン学校への入学試験勉強や準備に取り組んでいました。
当時ラグビーはプロチームはなく、アマチュアのみ。しかも日本のように一つの会社に属してという形ではなく、皆仕事を持っており、練習時間も日本のチームより極端に少ないもので、
その代わりに短時間の練習中の集中力は凄まじいものだったらしいです。
ここで相当のカルチャーショックを受けたようで、のちの神戸製鋼の改革につながっていきます。
帰国を余儀なくされ、神戸製鋼へ
イギリスでの滞在はわずか半年あまり。
リッチモンドクラブのBチームからすぐにAチームに上がり、初めての左ウイングへ抜擢されます。
それまではSO,CTBとして内部に切り込むポジションから、
いきなりトライを取りに行かなければいけないポジションへ
バックスとしての幅を広げるためにはものすごく貴重な経験を与えてくれるものでした。
順風満帆に進んでいたイギリス生活は、突然、終わりを告げます。
日本のファッション雑誌がインタビュー記事が載りました。
その際、あろうことか、モデルとして掲載されてしまいます。
まあ、あのルックスでは仕方ないことだったのかもしれません。
それが当時の日本ラグビー協会でのアマチュア規定に触れました。
即時、日本代表から外されてしまうのです。
一日中電話での取材攻勢が続き、ホームステイの大家さんに迷惑はかけられない、
日本ラグビー協会にも弁明しなければならない。
そこで一時帰国を決断するのでした。
ちなみに日本代表から外されたのは、日航機墜落事故の前日のことでした。
帰国してからの平尾はもう、どん底でした。
実際このインタビュー記事は、ノーギャラで、
平尾も出版社でさえも違反を犯していた認識もないまま、アマチュア資格の停止されてしまい、
それが国際的なものと知らされます。
つまり、リッチモンドクラブに戻っても試合には出られないとのこと。
自惚れてモデル気取りしてるからと叩かれ、(実際私もそう思ってましたが。)
協会からは、
汚名を返上したければ、日本の一流チームで結果を出せとのお達しでした。
日本代表からも落とされ、このスキャンダル以降、企業からの誘いは全く無くなり途方に暮れていたところ、神戸製鋼専務の亀高氏と食事をする機会があり、そこで神戸製鋼行きが決まったのでした。
神戸製鋼から監督、NPO旗揚げ、スポーツ振興活動へ
神戸製鋼に入社してから、目覚ましい活躍を続けます。
在籍時に新日鉄釜石に並ぶ七連覇も成し遂げて、日本代表としても復活、
W杯にも三度出場しています。
もともと、神戸製鋼はいいチームだけど強くないチームと言われ続けていたチーム。
そして原因が監督にやらされてる感を抱く選手が多く、
そのせいで結果が出ていないという事情から、
監督制を廃止していました。
しかも合同練習も基本週三回、練習時間の社業優先で夕方から二時間程度。
その分選手の自主性と集中力に任せ、戦略は選手全員で考え、
主将がまとめるというシステムです。
その頃はスポ根全盛時代、もうがむしゃらに、根性とか、精神論が尊ばれていて、
練習も激しく、長くは当たり前、そういう風潮の中、それは改革と呼べるものでした
同じようなクラブだったリッチモンドを経験した平尾氏にとってはなじみやすく、やりやすい環境だったのかもしれません。
それを紹介する記事は、どちらかというと懐疑的でできるわけないとの見方が大半、、
見事に覆し、社会人ラグビーで優勝で認めさせてしまった原動力にもなった選手でした。
1988年に主将を引き継いだ平尾は、FW,いわゆるスクラムで押していくスタイルに固執せず、
バックスを多用するオープンラグビーにチームスタイルを変えていきます。
これがはまり、神戸製鋼の黄金期だった7連覇につながっていくのでした。
引退後は日本代表監督や神戸製鋼のゼネラルマネージャー、総監督、
文部省中央教育審議会委員、
ラグビーW杯2019組織委員理事就任と、
大学卒業後はラグビーしないと言っていたものの、
病に倒れ、亡くなるまでラグビーとか変わり続けた日々を送りました。
→次の記事に続きます。
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